Masuk月曜の夜、浜松町の駅裏にある喫茶店で、久世は私の草案を読んだ。
A4で二枚。前の晩、三時まで直していた。 同居契約書 久世怜司(以下「甲」という)と真柴紗月(以下「乙」という)は、甲の所有する家屋における共同生活について、以下のとおり合意する。 第一条 乙は甲に対し、家賃として毎月末日までに金四万円を支払う。光熱費は甲乙折半とする。 第二条 家事は週替わりの当番制とする。 第三条 甲乙は、互いの私室に立ち入らない。 第四条 甲乙は、社内において同居の事実を秘匿する。 第五条 甲乙は、異性を家に招き入れない。 第六条 甲乙は、体調不良の際は速やかに申告する。 第七条 甲乙は、互いに恋愛感情を持たないものとする。 第八条 甲乙は、互いを苗字で呼ぶ。 第九条 食事は各自で用意する。 第十条 甲乙は、互いの過去に干渉しない。 第十一条 本契約の期間は、締結の日から翌年三月三十一日までとする。 第十二条 本契約に定めのない事項は、甲乙協議のうえ定める。 附則 本契約に違反した者は、一回につき金千円を支払う。 久世はコーヒーに口もつけずに、一条ずつ指でなぞっていった。 「第一条。四万は多い」 「中野で八万二千円払ってたの。半分以下だから、むしろ安い」 「固定資産税、たいしたことないぞ」 「部屋を借りるんだから、家賃は払う。そこは譲らない」 久世は少し黙って、それから「わかった」と言った。 「第三条。廊下と階段は私室に含まれる?」 「含まれない。共用部分」 「縁側は」 「共用」 「第九条。作りすぎた場合は」 「各自で処理して」 「もったいないな」 「それは久世くんの問題でしょう」 「第十一条。一年じゃないんだな」 「年度で区切ったほうが、更新の判断がしやすいから」 聞かれるたびに答えながら、私は少しだけ感心していた。社内の書類で見る赤字の質問と、同じ目のつけどころだった。曖昧なところを、ひとつずつ正確に突いてくる。腹は立つけれど、言われてみれば、どれも書き足したほうがいい。 私は手帳を開いて、修正点を書きとめた。 第一条から第十二条まで、久世はほとんどの条文に何かを聞いた。 ひとつを除いて。 第七条のところで、指が止まった。止まって、何も言わずに、次の第八条へ進んだ。 恋愛感情を持たないものとする。 聞くまでもない、ということなのだろう。私だってそうだ。わざわざ書いたのは、念のため。法務の人間は、起こりそうにないことほど条文にしておきたくなる。 それでも、彼の指が通りすぎたあとの一行が、妙に白く見えた。 「直したら、もう一回見せて」 「引っ越しの日に、清書を持っていく。そこで署名しよう」 「了解」 また二文字だった。でも今日は、不思議と腹が立たなかった。 * 引っ越しは、四月最後の土曜日だった。 中野の部屋から運び出したのは、段ボール十二箱と、ベッドと、小さな本棚だけだった。六年住んで、これだけ。トラックの荷台が半分も埋まらないのを見て、少し笑ってしまった。 豪徳寺の家では、久世が玄関の戸を開け放して待っていた。業者さんがベッドを二階に上げるあいだ、彼は黙って段ボールを運んでくれた。「本」と書いた重い箱ばかり選んで。 「それ、重いから私が」 「だから俺が持ってる」 言い返す前に、久世はもう急な階段を上がっていた。一段ごとに、家がぎしりと鳴った。 荷解きは、夕方までかかった。南向きの窓から入る光が、少しずつ橙色に変わっていくのを、私は段ボールの山の中から見ていた。 * 署名は、その夜、居間の座卓でした。 清書した契約書を二通。同じものを二枚並べて、まず私が乙の欄に名前を書き、印鑑を押した。それから二通とも、座卓の向こうに滑らせた。 久世は、もう一度最初から読みはじめた。月曜にあれだけ聞いたのに。 柱の時計が、こちこちと鳴っていた。縁側のガラス戸の向こうは、もう真っ暗だった。 久世の目が、紙の真ん中あたりで止まった。 第七条のあたりだった。 長かった。月曜に指が通りすぎたときより、ずっと。私は自分の膝の上で手を組んで、ほどいて、また組んだ。何か直したいところがあるなら、言えばいい。なのに何も言わない。何を考えているのか、その横顔からは何も読めなかった。 「……久世くん?」 「ああ」 久世は顔を上げずに、ペンを取った。甲の欄に、迷いのない字で名前を書いた。印鑑を押す。二通目にも、同じように。 それから一通を私に返して、立ち上がった。台所へ行き、空のガラス瓶を持って戻ってくる。座卓の真ん中に、とん、と置いた。 「附則の千円。ここに入れることにしよう」 「……用意がいいね」 「祖母が、梅干しを入れてた瓶」 空っぽの瓶の中に、天井の電球が小さく映っていた。 「よろしく、乙」 「よろしくお願いします、甲」 真面目に言ったつもりだったのに、久世がまた、ふっと息をもらした。 * 夜中に、喉が渇いて目が覚めた。 知らない天井だった。知らない家の、知らない静けさだった。枕元のスマホを見ると、一時を少し過ぎていた。 足音を立てないように階段を降りた。それでも、三段目が小さく鳴った。 居間の明かりが、まだついていた。 ガラス戸の隙間から、座卓に向かう背中が見えた。手元には、さっき署名したばかりの契約書の控え。久世は鉛筆を持っていた。 鉛筆の先が、紙の上で小さく動いて、止まった。 何を書いているのか、ここからは見えなかった。 私は声をかけずに、そっと階段を戻った。三段目は、今度は鳴らなかった。声をかけるか迷っていると、久世のほうが先に気づいた。 「……早いな」 眼鏡の奥で、目が少し丸くなっていた。驚いた顔も、初めて見る。 「そっちこそ」 「いつもこのくらいだから」 「いつも?」 「祖母がそうだった。五時に起きて、朝のうちに家のことを全部済ませる。一緒に住んでたら、うつった」 それで、と思った。お風呂も、タオルも、ゴミ出しも。私が起きるころには、この人はもう三時間近く動いていたことになる。 「……眼鏡なんだ」 「会社ではコンタクト」 久世は少し決まり悪そうに、つるに触れた。外すかと思ったけれど、外さなかった。 黒い縁の眼鏡ひとつで、ずいぶん印象が変わる。人に囲まれているときの隙のなさが消えて、どこか学生のころの顔が透けて見えた。 この顔を、営業部の誰も知らないのだと思った。思ってから、どうしてそんなことを考えたのか、自分でもわからなかった。 「コーヒー、いる?」 「……いただきます」 久世が台所へ立った。私は縁側の端に腰を下ろした。板が、朝の冷たさを吸っていた。 戻ってきた久世は、マグカップを私の横に置いて、座布団ひとつ分あけて座った。 一口飲むと、甘かった。何も聞かれなかったのに。 膝の上の本が目に入った。『不動産取引の法律実務』。法務部の私の机にも、同じ本がある。ただ、久世のそれは、ページの横から色とりどりの付箋がはみ出して、背表紙が割れかけていた。 「営業なのに、そんなの読むの」 「営業だから読む」 「わからなければ、法務に聞けばいいじゃない」 「聞いてる」 久世は付箋のひとつを開いて、本をこちらに向けた。 余白に、ボールペンの小さな字で書きこみがあった。 ――「相当期間」は通常二週間~一ヶ月。相手方が個人なら長めに見る。(真柴) ――特約は消費者契約法十条に注意。無効とされた例あり。(真柴) 息が止まった。 私の言葉だった。赤字の質問が届くたびに、私が返してきた答え。「了解」の二文字しか返ってこなかった答えが、ここに書き写されていた。 「……これ」 「真柴の答えが、いちばんわかりやすいから」 久世はマグカップに口をつけた。 「ほかの人に聞くと、ケースバイケースで終わる。真柴は、なんでそうなるかまで書いてくれる。だから、わからないところは真柴に回してた」 粗探しだと思っていた。嫌がら
第四話 三枚の千円札 四月三十日の夜、私は白い封筒を座卓に置いた。 「家賃。四月分」 久世は風呂上がりで、首にタオルをかけたまま封筒を見下ろした。 「……まだ五日しか住んでないだろ」 「だから日割り。六千六百六十七円。端数は切り上げた」 「細かい」 「言ったでしょう」 久世は封筒をつまみ上げて、重さを確かめるみたいに小さく振った。中で小銭が鳴った。 「第一条だから」 「わかってる」 それだけ言って、封筒を持って自分の部屋へ入っていった。 受け取った。ちゃんと受け取った。私は少しほっとして、二階に上がった。 * 家事の当番は、署名のあとにじゃんけんで決めた。負けた私が、最初の一週間。共用部分の掃除と、お風呂と、ゴミ出しと、共用のタオルの洗濯。 荷解きの続きで、連休に入るまでは手が回らなかった。だから五月三日の朝に、まとめて片付けるつもりだった。 八時に起きて、階段を降りた。三段目が鳴った。 風呂場の戸を開けると、床も浴槽も、もう濡れて光っていた。洗剤の匂いが、まだ残っている。廊下の板の間は拭いてあった。玄関マットはまっすぐ直されて、ゴミ箱には新しい袋がかかっていた。 居間では、久世が新聞を読んでいた。紙の新聞を取っている同世代を、私は初めて見た。 「……お風呂、洗った?」 「目が覚めたから」 「今週の当番、私なんだけど」 「知ってる」 新聞をめくる音。 「知ってるなら、なんで」 「暇だった」 暇だからといって人の当番をする人が、どこにいるんだろう。 その日の午後、洗濯機を回そうとしたら、共用のタオルはもう乾いて、脱衣所の棚にたたんで並んでいた。角まできっちり揃っていた。 翌朝はゴミの日だった。七時に玄関を出ると、集積所の網の下に、うちの袋がもう置いてあった。 三回続けば、偶然とは言わない。 * 五日の夜、私は契約書の控えを持って居間に降りた。 「第二条違反です」 座卓の向こうで、久世が顔を上げた。 「家事は週替わりの当番制。今週は私の週。なのに久世くんが、お風呂とタオルとゴミ出しをやった。三回」 「やったな」 「附則により、三千円」 言いながら、自分でも少しおかしいとは思っていた。家事をやってもらって、罰金を取る。普通なら、お礼を言うところだ。 でも、素直にお礼を言ったら、向こうの思うつぼの
月曜の夜、浜松町の駅裏にある喫茶店で、久世は私の草案を読んだ。A4で二枚。前の晩、三時まで直していた。 同居契約書 久世怜司(以下「甲」という)と真柴紗月(以下「乙」という)は、甲の所有する家屋における共同生活について、以下のとおり合意する。 第一条 乙は甲に対し、家賃として毎月末日までに金四万円を支払う。光熱費は甲乙折半とする。 第二条 家事は週替わりの当番制とする。 第三条 甲乙は、互いの私室に立ち入らない。 第四条 甲乙は、社内において同居の事実を秘匿する。 第五条 甲乙は、異性を家に招き入れない。 第六条 甲乙は、体調不良の際は速やかに申告する。 第七条 甲乙は、互いに恋愛感情を持たないものとする。 第八条 甲乙は、互いを苗字で呼ぶ。 第九条 食事は各自で用意する。 第十条 甲乙は、互いの過去に干渉しない。 第十一条 本契約の期間は、締結の日から翌年三月三十一日までとする。 第十二条 本契約に定めのない事項は、甲乙協議のうえ定める。 附則 本契約に違反した者は、一回につき金千円を支払う。久世はコーヒーに口もつけずに、一条ずつ指でなぞっていった。「第一条。四万は多い」「中野で八万二千円払ってたの。半分以下だから、むしろ安い」「固定資産税、たいしたことないぞ」「部屋を借りるんだから、家賃は払う。そこは譲らない」久世は少し黙って、それから「わかった」と言った。「第三条。廊下と階段は私室に含まれる?」「含まれない。共用部分」「縁側は」「共用」「第九条。作りすぎた場合は」「各自で処理して」「もったいないな」「それは久世くんの問題でしょう」「第十一条。一年じゃないんだな」「年度で区切ったほうが、更新の判断がしやすいから」聞かれるたびに答えながら、私は少しだけ感心していた。社内の書類で見る赤字の質問と、同じ目のつけどころだった。曖昧なところを、ひとつずつ正確に突いてくる。腹は立つけれど、言われてみれば、どれも書き足したほうがいい。私は手帳を開いて、修正点を書きとめた。第一条から第十二条まで、久世はほとんどの条文に何かを聞いた。ひとつを除いて。第七条のところで、指が止まった。止まって、何も言わずに、次の第八条へ進んだ。恋愛感情を持たないものとする。聞くまでもない、ということなのだろう。私だってそ
約束は土曜の十一時、小田急線の豪徳寺駅だった。 見るだけ。決めるわけじゃない。 この三日間、そう言い聞かせてきた。断る理由なら十個は思いつく。同期で、異性で、しかも私を嫌っている人の家に住むなんて、普通に考えればありえない。なのに、十一万のユニットバスと天秤にかけるたび、断る理由のほうが少しずつ軽くなっていく。それが自分でも情けなかった。 改札を出ると、久世はもう来ていた。 グレーのパーカーにジーンズ。スーツ姿しか知らなかったから、一瞬、誰だかわからなかった。 「……早いね」 「家、近いから」 それだけ言って、歩き出す。私は半歩うしろをついていった。 商店街を抜けると、急に静かになった。生け垣の続く細い道を、自転車の親子がゆっくり追い越していく。どこかの庭で、沈丁花がまだ匂っていた。 「駅から何分?」 「八分」 「会社までは」 「乗り換え一回で、四十五分くらい」 聞けば答えが返ってくる。それ以上は返ってこない。会社の廊下と同じだ。 「ここ」 久世が足を止めたのは、黒い板塀の前だった。 古い家だった。木造の二階建てで、瓦屋根が春の日差しを鈍く跳ね返している。玄関までの短い飛び石の横に、小さな庭があった。手入れが行き届いている、というほどではないけれど、雑草はきちんと抜いてある。 「お祖母さんの家って言ってたよね」 「三年前に亡くなって、俺が継いだ」 「……そうなんだ。ごめんなさい」 「なんで謝る」 久世は鍵を回しながら、少し不思議そうな顔をした。 中は思っていたより明るかった。廊下の床板はところどころ色が違って、何度か張り替えたのがわかる。台所には使い込まれた鍋が並び、壁には手書きの予定が書きこまれたカレンダーが掛かったままだった。三年前の、十一月のページ。 私が見ているのに気づいたのか、久世が言った。 「外せなくて」 「うん」 それ以上は聞かなかった。聞いてはいけない気がした。 一階には台所と居間と、久世の部屋。居間の奥は縁側になっていて、ガラス戸の向こうに庭が見える。 「部屋は二階。三つあるから、好きなのを選んで」 階段は急で、一段ごとに小さく軋んだ。 二階の廊下に、襖が三つ並んでいる。久世はいちばん奥の襖を開けた。 六畳の和室だった。南側に大きな窓があって、レースのカーテン越しに、光がまっすぐ畳の上
第一話 砂糖とミルク、ひとつずつ不動産会社に勤めていて、住む部屋がない。笑い話にするには、少し切実すぎる。昼休み、社食の隅でスマホを開くと、不動産サイトのお気に入りがまたひとつ灰色になっていた。成約済み。昨夜、内見の予約を入れようか迷っているうちに、誰かが決めてしまったらしい。「紗月、顔が死んでる」向かいに茉莉がトレーを置いた。今日の日替わりは鯖の味噌煮で、彼女はそれには目もくれず、私の画面を覗きこむ。「まだ決まらないの?」「決まらない」「期限、いつだっけ」「四月三十日」あと三週間と少し。口に出すと、思っていたより短い。今の部屋は中野の、築四十二年のマンションだ。駅から七分、家賃八万二千円。日当たりは悪いけれど、入社した年からずっと住んでいる。一月の終わりに管理会社から封書が届いて、建て替えが決まったと知らされた。立ち退き料は出るし、手続きにも問題はない。仕事柄、通知書を三回読み返して、穴がないことまで確かめてしまった。穴がないのが、いちばん困る。「同じくらいの条件なら、あるでしょ」「あった。先月までは」春の引っ越しシーズンに、同じ家賃で同じ広さを探すのがどれだけ無謀か、この一ヶ月で嫌というほど学んだ。少しでも条件がいい部屋は、内見の前に埋まる。埋まらない部屋には、埋まらない理由がある。北向きの一階、線路沿い、ユニットバスで十一万。「いっそ実家から通えば?」「静岡から浜松町まで?」「新幹線通勤の人、いるらしいよ」「定期代、会社が出してくれると思う?」茉莉は鯖をほぐしながら、出さないね、と笑った。総務部の彼女にそう言われると、本当に出ない気がしてくる。*午後は、来週締結予定の賃貸借契約書のチェックでつぶれた。法務部の私の席からは、フロアの反対側にある営業部の島がよく見える。見たくなくても見える。久世怜司は、今日も人に囲まれていた。電話を肩に挟んだまま後輩の資料に付箋を貼り、通りかかった部長に軽く頭を下げ、受話器を置くと同時に誰かの冗談に笑う。笑うと、目尻が少し下がる。そういう顔を、私は遠くからしか見たことがない。同期入社で、七年目。研修のグループも同じだった。なのに、まともに話した記憶がほとんどない。彼が法務に回してくる書類にだけ、赤字の質問がびっしり付いてくる。「第九条の『相当期間』は何日を想定していますか」「







